昨年9月に送ったブログに若干付け加えたい。といっても専ら最後の「きけ、わだつみの声」についてだけの話なのだが。
 私事になるが、私の父親は、戦前の陸軍士官学校で、服部卓四郎、辻政信と同期だった。だが陸軍大学卒業は、服部がストレート、辻はそれより1期遅れ、父親は辻よりもさらに3期遅れだった。そのためか敗戦時は陸軍教育総監部付だった。服部は大本営陸軍参謀本部作戦課長だった。課長といっても、実際の作戦の起案はぜんぶ作戦課長がやる。それよりも上級者は作戦を裁可するか、変更するだけである。一方辻は、ノモンハン事件、ガダルカナル戦闘、インパール作戦の現地司令官として作戦の現地指揮をとり、その結果何万、何十万という将兵,それを数倍する現地人を死亡させた責任者だった。敗戦と同時に戦犯として連合軍から指名手配され、東南アジア方面を逃げ回った末に、講和条約発効後、日本に帰ってきた。その直後の総選挙に無所属で石川県から立候補して当選した。ただもし逃げ回っている間に捕まったら、おそらくA級戦犯として処刑されていただろう。服部は敗戦後、米占領軍に協力して、ために戦犯として訴追されないまま、余生を全うしたといわれている。但しどういう協力をしたのかは、一切明らかにされていない。731部隊の石井四郎少将の場合の「協力」は、どういう協力かははっきりしているのだが。アメリカの司法取引制度には、えげつないぐらい露骨なところがある。
 私の父親と辻は、郷里が近かったこともあって、多少の交際があった(辻は今の加賀市の山側の寒村、父は海側の農漁村出身)。辻が選挙に立候補した直後、私の母親が、父と離婚した直後のことでもあり、金沢に辻を訪ねて行ったことがあった。辻は、日本に帰国後出版してベストセラーとなっていた「潜行三千里」数冊に署名して「頑張ってください」と言って寄越したという。それから20~30年後のこと、私が杉森久英「参謀・辻政信」(河出文庫、絶版。杉森には「徳田球一」の伝記もある)を見つけて、母親に渡したところ、「見ろ。辻さんは酒席には一切女を近づけなかったと書いてある。だからあんなに偉くなれたんだ。それに比べてうちの親父ったら、酒席では女にだらしないったらありゃしなかった」という感慨を吐露したことがあった。それを聞いて、最初は「うーん。これは極めて女性らしい感想だな」と思ったが、これは逆に「女性差別意識」丸出しの感想だったのかもしれない。
 父親は、開明的なところもあって、太平洋戦争突入までは、よく「野球はツーダンから」とか「ピンチの後にチャンスあり」など、野球のことわざを引用して、話すことがあった。だが太平洋戦争突入と同時に野球用語は敵性語として排除されるようになった。戦争突入翌々年の昭和18年には、小学校の休み時間には、校庭(新大久保駅近くの戸山小学校。今でも当時のコンクリート舗装)で大音響で「若鷲の歌」(予科練の歌)をガナリ立てるようになっていた。戦争突入は煽られるとアッという間である。くわばら、くわばら。