朋有り。遠方より来たる。亦楽しからずや。
ブログ投稿日時:2016年10月08日土曜日 11時36分33秒
記事投稿者:栗山武行政書士事務所 カテゴリー: General
ついこの前、ポーランドから友人が訪れてきたので、酒を酌み交わして旧交を温めた。1年に一度、今頃日本にやってくる。この表題は中国の孔子の言葉である。今だと「何ですか。そりゃ」と言われそうだが、以前私たちの学生時代には、孔子、孟子、韓非子、孫子等昔の中国の偉人の言葉については、ほとんどみな覚えたものである。国立大学の入学試験では、5教科が必須で、100点満点のうち国語は20点、漢文はその5分の1で4点の配分だった。100点のうちの4点だから、とても捨てゲームにするどころの話ではない。受験生はみな必死になって勉強したものだ。「朱に交われば赤くなる」とか「逃げるが勝ち」とか「孟母三遷」(孟子の母は孟子が科挙の試験に合格するようにと、勉強できる環境を探して三度引っ越した)の言葉などは、ほとんど常識となっていた。
さて件の友人だが(仮に「A君」としておこう)、知り合ったのが1965年頃だから、もうかれこれ50年は経つ。当時は同じ事務所で机を並べて仕事をしていた。最初の頃は麻雀でも囲碁でも私の方が若干上手で、私の方が手ほどきをしたものだったが、その後囲碁、麻雀両方ともその位置は逆転してしまって、A君の方が上手となってしまった。その後私がそこを離れてのちも、「A君」は、順調に上り詰めて、最後は総評の書記局員となった。そして総評から連合への移行過程では、連合初代会長の山岸章の腰巾着(失礼。懐刀かな)となり、大いに重宝がられたという。1993年の小沢一郎一派の自民党脱退=新党結成時には、山岸は「俺が小沢に踏ん切りをつけさせたんだ」と後々まで自慢していたそうであるが、A君も山岸=小沢会談に同席していたという話である。その後A君は連合の定年退職のあと、参議院副議長の秘書となり、年金が月27万円まで上がったということである。
連合の書記局員のち役員時代には、とにかく連合の女性に、もててもてて大いに困ったということである。35歳下の女性と同棲してみたり、市民運動を一緒にやった女性とくっついたり、そして最後にはポーランドの35歳年下の女性と教会で結婚式を挙げるところにまでいってしまった。このポーランドの女性は、最初ディズニーランド見物に来て、のちそこに興味を覚えてそこで働いていたが、やはり故国を離れて寂しかったせいだろうか、木更津の浜幸一家のヤクザにつけこまれて、子どもまでつくってしまったという。ところが結婚した途端、ヤクザは本性を現して働かなくなり、ヒモに成り下がってしまったのだった。彼女の方はそんな環境にいたたまれずに、ヤクザに無断で子どもを連れて故国へ帰ってしまった。ところがヤクザの方は彼女を諦め切れずに、ポーランドまで追っかけて行って、彼女につきまとい、家にも入り始めたということである。
ここで引き下がるようなA君ではない。やはりポーランドにわたって行って、ヤクザを説得するつもりが殴り合いの喧嘩になり、A君は日本人としては体格が良い方だったが、流石にヤクザだけあって喧嘩慣れしている。アッという間に雪の上でヤクザに組み敷かれ、上から首を絞められて意識がぼうっとなり、「俺の人生もこれで一巻の終わりか」と思ったそうである。ところがその瞬間、ヤクザはA君から離れて雪の上に寝転がり、オイオイと泣き出したという。「俺には人は殺せない。やはり彼女と別れて日本に帰る」と表明したのだった。その後彼女は「自分の命をかけて戦ってくれた男」と思ったせいだろうか、35歳も年上の男とポーランドのカソリック教会で正式の結婚式を挙げたのだった。A君のような年を食った男性であっても、生死を懸けて力を尽くせば、女性が心を動かすことも大いにあるのだなと、強く感じ入った次第である。ただこの話には後日談があるが、それはこの際はやめにしておこう。そのA君も日本の円安についてはぼやくこと、ぼやくこと。「それまで俺の年金で3人喰えたのに、2人喰うのがやっとになってしまった」。だがそのA君も、最近の日本の円高に、ホッと一息ついているとのことである。
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