このほど東京都社労士会の海外視察旅行(上海)に同行した。行政書士との2足の草鞋を履いていると便利なときもある。初めての訪中なので、見るもの、聞くもの、驚きの連続だった。最初に上海からの観光バスの出入りでは、3車線ある高速道路はギッシリ満員で、すごい渋滞だった。日本とは時差1時間で、気候も北京と違って東京並みなので至極快適だ。視界一面に車がギッシリ詰まっていて、なかなか前へ進まない。ほとんどが乗用車だ。軽自動車は1台もない。聞けばみな足の利便のためではなく、ステータスシンボルとして買っているので、日本でいえば1000万円位に相当する車を争って買っているのだという。
  1889年の天安門事件の頃は、労働者はみな自転車通勤で、天安門広場を行き来していたので、「これは中国労働者はまだまだ貧しいのだな」と思って、不遜にもホッと安堵の溜飲を下げていたものだったが、考えてみればそれからもう27年も経っている。全体が我を争って車を買うに至っても、何の不思議はない。それで今上海の人口は2300万人で、東京都の約2倍である。北京も同じ位、中国でトップは重慶で約3000万人いるという。
  その日と次の日に、中国茶と絹糸刺繍工場の見学があった。実地でお茶をどう入れたらおいしく飲めるか、絹糸の刺繍はどうやって作るかを実演して見せてから商品を売るので、嫌みがない。みな先を争ってお土産品を買い求めた。
  刺繍工場では、工場長が「1972年の日本の首相はだれですか。その時の中国の首相は?」と聞いてきた。田中角栄と周恩来だなとすぐわかった。中国では田中角栄は、今でも尊崇の的のようだ。日中国交回復当時、周恩来が田中角栄に1000万円近くする絹糸の刺繍を送って、いまでもそれは田中邸に飾ってあるとの話である。田中邸といえば、新潟地方の物流を完全に止める8日間にわたる大争議となった1957年の国鉄新潟闘争当時の革同のキャップ=細井宗一(糸魚川機関区出身)は、いつでも田中角栄にはさしで会える間柄だったという。戦前中国戦線で、田中は細井大隊長(中尉か)の馬の轡をとっていた。たぶん細井はいい上官だったのだろう。ときたま東京駅八重洲口などで出会うと、細井は腰に軍刀をつるしたような歩きっぷりをしていた。戦後田中が大蔵大臣以上になってからも自由に会えるようになっていたという。裏口から田中邸を訪れると、サッと招じ入れられた。国鉄分割民営化当時、細井は総評冨塚の意向を受けて、「民営化やむなし。分割だけは阻止する」との線でまとめようとしたが、田中の脳梗塞で頓挫した。もっとも脳梗塞で倒れなくとも、それが実現できたかどうかは疑問だが。国鉄分割民営化、総評解体は、資本家階級の階級意志だったのだから。
 ただし田中の日中国交回復には、キッシンジャーが激怒したということである。アメリカの議会ではいったん否決されたので、真の国交回復は、日本よりもはるか後のカーター政権下の79年になってしまったからだ。「小汚いイエローモンキーめが。他人の歴史的事業を完全に盗み、出し抜きやがって。絶対に許さないからな」。その仕返しがロッキード事件、ピーナッツの暴露だったのだ。
 そのほかに、運河の都・蘇州の訪問や、豪商の私邸である「豫園」「龍園」の見学、「雑技団」(中国式サーカス)の観覧、日本と中国の弁護士による講演会(中国の労働事情と労働法制の解説等)など、盛り沢山だった。お互いの往き来には金がかかるが、もっと交流を盛んにすればよいなと思った次第である。
 もっともここ上海の地は、戦前日本軍隊が、2次にわたる上海事変(一次は1931年の満州事変の直後、二次は1937年の蘆溝橋事件の直後)を引き起こし、一次のあと1932年に米英仏と租界という名の治外法権ゾーンを設定した地である。ディックミネの「夜霧のブルース」「上海ブルース」、渡辺はま子の「蘇州夜曲」は、いずれも当時の上海租界を懐かしんだ歌である。さらに1937年7月の蘆溝橋事件のあと、8月に上海から南京へと攻め込んでいった場所でもある。交流を盛んにするのはよいが、そうした歴史的事実を忘れてはならないと強く思った次第であった。