このタイトルは、アガサ・クリスティーのスリラー小説の題名だが、いま世界で、第二次世界戦争経験者は、どんどんと少なくなりつつある。そのこと自体は、避けられない自然の摂理であるのだが、問題は、その結果、現実に存在したことも無かったことにされてしまうことが往々にして現出しかねないことである。あと10,20年もして、第二次世界戦争経験者がだれもいなくなって、歴史の真実が逆転してしまうことがあるとすれば、そのことは大問題だと言えるのではなかろうか。
 前回、「戦前の『軍歌』について想うこと」で、戦前の学校では、教師が相手が女子生徒であろうとお構いなしに、ビシバシと往復ビンタをかましたことを紹介した。そのことで気付いたのだが、往復ビンタは、何も教師が生徒たちに見舞うものばかりとは限らなかったのである。当時の学級では、1日に1回は戦死した兵隊さんに感謝して黙祷を捧げる慣習があった。その1分間の黙祷の間に、姿勢を乱したり、笑みを浮かべたりする者がいたとしたら、ちゅうちゅすることなく往復ビンタを食らわす権限が、その時の級長、副級長に与えられていたのだ。そのビンタは、相手が女子生徒であってもお構いなしだった。級長、副級長と言っても、まだ棒ばなを垂らした小学生の悪餓鬼である。興味本位に駆られることも少なくなかったと思われる。そのようにして、学校生活、社会生活も含めて、1億総兵営化しなければ、戦争遂行などはできなかったのだ。
 いまは恐らく100分の99、いや1000分の999人が、そのような往復ビンタがわが子に、わが娘に見舞われることには反対するだろう。怒りに燃えて親は抗議するはずである。現在は体罰は厳禁とされているからだけではなくて、わが子にそのような理不尽な暴力が加えられることが許せないのだと思う。そして戦争体験者がそのような暴虐行為の思い出を語るとき、戦争体験が全くない人でも、それを「ウソだ」「デマだ」とは思いはしない。真実を語っているのか、ウソ、デマを語っているのかは、その場にいれば、立ちどころに解るものなのだから。
 だがこのあと10年か20年がたって、戦争体験者がだれもいなくなったとき、そんな話は信じたくないという人が現れて、全否定をして、肯定をする人との際限のない空中戦となってしまうことを、私は恐れる。声が大きいだけの大人の悪餓鬼が、みな戦時中の体験が無いのをよいことに、「いや、そんなことはなかったよ」と言ってのけかねないのである。当時はテープやカセットなどの録音機はなかったのだから、それらの機具によって証明できるというわけではない。だが、はっきりしていることは、そうした歴史的事実は、巌としてあったのだ。あと10年か20年の寿命だとはいえ、そのことは声を大にして言わなくてはならないと、どうしても考えてしまうこの頃である。