今年の知人からの年賀状に「社会貢献活動もやっているのですか」との問いがあって恐れ入った。まだ「社会貢献活動」と言えるようなものは、何もできていない。私たちは、年配者のほうが被曝の害が少ない、だから若者たちの作業を肩代わりしようと意図した。そのとき、日本の産業構造は、建設業を中心に、多重下請構造に陥っている、だからその構造をも打破していくんだという意気込みも一部にはあった。だが、そのような意気込みは、それこそ多重下請構造の岩盤に跳ね返されて、それ以上前へ進むことはできないでいる。
 ただ厚い岩盤に跳ね返されただけではなく、私たちの認識の違い、思い込みもあったのではないか。多重請負構造は、別に建設業界だけではなくて、それこそ日本全土、全産業を巻き込むシステムとなっているのである。それは製造業からサービス業まで、ほとんど全産業にわたっていると言っておかしくはない。建設業界以外はそうではないと思っていたら、思っている方がおかしいのだ。
 とりわけ、余り公知となっていないのは、今やほとんどの公務労働、公務的労働も、多重下請システムのもとにあるということだ。今や国や各都道府県、各市区町村の諸機関は、とりわけ意思決定機関でない窓口業務や受付事務、作業業務は、半ば以上が、非常勤職員か、外部委託の職員によって賄われている(どの職場でどうこうということは差し障りがあるので控えるが)。そのことが悪いというのではない。非常勤職員や外部委託職員も、みなそれぞれ立派に職務をこなしているのだから。問題は、これらの人たちの賃金、労働条件が、驚くほど低い、悪いということである。ある個所の本を扱う職場などは、職員の平均給与は、何と月12~13万円にしか過ぎない。これでは親がかりのパラサイトシングル(寄生の単身者)か、亭主もちの奥さんしか生活し勤務していくことはできない。国の他の諸機関職員でもせいぜいが月17~18万円だという。これでは国自らがワーキング・プアを作り出していると言っても、過言ではない。
 私見だが、かつて(80年頃か)かまびすしかった「公務員の給与は高い」「公務員は働かない」という大合唱が、このような酷い結果を生んでしまったのだと思う。だが、公務員の給与が、民間の給与より2~3割も高ければ、それこそ労働貴族だが、民間の給与並み、あるいは1割ぐらい高いのはやむを得ないのではないか。かつて奏でられた「公務員の給与は高い」の大合唱は、実は「高い公務員の給与を下げれば税金が安くなる」という誰かからの煽動もしくは思い込みの悲しいサガが作り出した幻影に過ぎなかったのだ。
 今の世の中で、公務労働、又は公務的労働は、絶対に必要なものなのである。そのことは、福島原発事故一つ取ってみてもよく分かる。その労働を無くすわけにはいかない。だがその労働が「高い」「高い」の大合唱に晒されたら、為政者又は行政の責任者はどうするか。もっと低い賃金で、より多くの人を雇うより外ないではないか。だから「公務員の賃金高い。高い」の大合唱を奏でることは(2~3割も高いなら別だが)、全労働者の賃金水準を引き下げ、自分たちの労働条件を悪くする、すなわち自分で自分の首を絞める行為に他ならない。人事院勧告がそうだが、公務員の賃金水準は、労働者全体の賃金水準を、ある程度決定するのだ。それが低くなったら、自分たちの給与もそれに応じて低くなってしまうではないか。
 「公務員の賃金を下げれば税金が安くなる?」。そんなことがあった試しは、かつて一度もなかった。「税と社会保障の一体改革だ」「社会保障費以外は1文たりとも使わない」と鳴り物入りで騒いだ、今回の消費税値上げでも、社会保障費は下がるどころか、こてんぱんに上がり、年金は下がっているではないか。値上がり分は、税金を安くするのではなく、国土強靭化、軍事費など別なところに費消されるのだ。「公務員の給与を下げろ」の大合唱をするよりも、次々と天下り先を見つけてそのたびに多額の退職金をせしめる渡り鳥官僚を辞めさせるか、平均でアメリカの州議員の4~5倍の給与は取るという都道府県会議員の歳費(兵庫県の号泣県議などの酷い茶番もある)を下げる努力をした方がはるかに効果的なのではないだろうか。