このところ、戦前の「軍歌」について、想い出すことが増えてきたような気がする。これも世相の反映なのだろうか。また歳を取ってきたせいか、昔のことはよく覚えているのに、最近のことは忘れっぽくなったように感ずる。子どものころに聞いた「軍歌」などは、歌詞や節回しなどは今でもある程度は思い出すことができるのだ。これは多少は「認知症」の気が進んできた徴候といえるのだろうか。
 ここで「軍歌」の話をしようというのは、何も戦前のことを美化したり、称揚しようというのではない。だがかつてどのような歌が歌われていたかを辿ることには、それなりの意義があるのではないかという気がするのだ。かつて「雪の進軍」という歌があった。「雪の進軍氷を踏んで、どこが川やら道さえ知れず、馬が倒れば捨ててはおけず、ここはいずこぞ、みな敵の国」とある。「周りがみな敵」とは、この人はどこへ何をしにきているのかということである。まさか招かれ歓迎されて行ったわけではないのだろう。あるいは敵の中に飛び込んで行ったのか、あるいは軍事力という暴力で押しかけていったから、周りがみな敵になってしまったということもある。
 また「荒鷲の歌」という歌もあった(予科練の「若鷲の歌」とは別物)。「見たか銀翼この雄姿、日本男子の精込めて、作って育てたわが愛機、空の守りは引き受けた、来るなら来てみろ赤トンボ、ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ」。だが戦争の現実は、「空の守りを引き受ける」どころではなかったのだ。このような強がりとは真逆に、空は無残に米軍に占有され、赤トンボならぬB29の編隊に自由に徘徊され、ヒロシマ、ナガサキや東京大空襲のような惨禍を許してしまったのだった。虚実の落差の余りの大きさには愕然とせざるを得ない。
 1941年12月8日の真珠湾攻撃では、その直後から以下のような歌が全国で流布された。「~兄さんが涙を拭いておっしゃった。あの12月8日の日、太平洋の真ん中で、大きな手柄を立てたのは、若い9人の勇士です」。日本の国民は、ごく少数を除いては、大多数が「9軍神」のこの戦果に舞い上がってしまった。だがよくよく考えると、この話にはおかしなところがある。2人1組が操縦する特殊潜航艇なのだから、本当は10軍神でなければならない。それがなぜ「9軍神」なのだろうか。実は1人が岸壁に打ち上げられて、捕虜となっていたのだった。軍部と政府はその事実を押し隠して、「9軍神」として称えたわけである。また大多数の国民も、コロリとだまされてしまったのだ。かくいう私も、つい30年ぐらい前までは、その欺瞞に気付くこともなく、不明にも「9軍神」神話を信じていたのだが。仮に1人が捕虜となったとしても、「戦果」を挙げたという点では、他の9人と同等であったはずなのだが。
 だがもしその矛盾に気がついて、うっかり「アレ。何で9人なんだろう」「おかしいんじゃないか」とでも口を滑らせていたなら、おそらく半殺し以上の目にあわされていたに違いない。なにしろ女子生徒に対しても容赦なく往復ビンタを食らわせる時代だったのだ(もっとも女子生徒に対してはさすがに鉄拳ではなく平手打ちがほとんどだったが)。軍部と政府がその欺瞞を押し通した理由には、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の護持があったのだろう。だがクリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」が描いているように、それは無益な玉砕を兵士に強要するものでしかなかったのである。 
 以上のように、戦前の「軍歌」について(他の出来事もそうだが)、それをまるきり毛嫌いして、無かったかのように、没にして済まさない方がよいのだと思う。嫌な経験だということで、触れないで済ませてきたのが戦後民主主義だったのではなかろうか。それは戦前の軍部、政府の欺瞞をもまた隠してしまうことになる。「騙した奴が悪いのだ」と、それだけ言っている人間は、今後も何度でも騙されることになろう。国民が二度と騙されないためには、教訓となる部分はシッカリと語り伝えていくことが必要なのではないだろうか。