7月18日付の新聞経済面を何気なく見たら、目が釘付けになってしまった。青木昌彦氏死亡の記事である。何でも長い患いののちにではなく、急な逝去のようである。77歳とまだ若いのに残念だ。仲間や同僚に対しては、君付けか呼び捨てがふつうだが、青木氏とはかなり距離があったのと、常々仰ぎ見る存在だったので、あえて「氏」付で記させてもらう。
 青木氏とは、昨年から今年にかけて、3度ほど研究会でご一緒させていただいた。もっとも研究会と言っても、こちらが一方的に話を聞くだけの会なのだが。そのときは、まったく偶然に3人の講師がみな「ちくま新書」の著者だったので、それぞれが自分の著書について語らった。青木氏は「青木昌彦の経済学入門」という著作だった。この意味するところは、「青木昌彦の『経済学入門』ではなく、「青木昌彦の経済学『入門』」ということだというタイトルの説明を聞き、なんとなく解ったような気になった。もっとも内容については、私の理解の度を超えていて、チンプンカンプンだったが。あともう一人が著作の説明をした後、「私の本を読んでもらえば分かるが、今後とも中国との友好は大事だと思う。
それが安全保障だ」と言ったのに対して、青木氏も「そうだ」と大きく同意していたのが、印象に残った。
 その研究会の前に会ったのは、2008年の青木氏の出版記念会だった。日本経済新聞の最後の面に連載した「私の履歴書」を刊行したものである。江田五月参議院議長(当時)をはじめ、大勢の昔の仲間の参加で、盛り上がった。
 私と青木氏との初めての出会いは、大学に入学した時だった。私が大学に登校していくと、大学正門前で2~3人の学生が、宣伝カーの上からアジ演説をしていた。その一人が青木氏だった。青木氏は昭和13年4月1日生まれで、ストレートで入学した。「4月1日生まれが何で早生まれなんだ。頭がいいから何とかごまかして入ったんだろう」と、陰口をきく向きもあったが、「誕生日の前日の午前零時に一歳の年を取る」と民法にも、はっきりと記載されている。確かに誕生日から誕生日では、1年と1日となったしまう。4月1日早生まれの生きた実例にたまたま出会えたことになる。私などは大変におくての方だったので、それらのアジ演説はボンヤリと聞き逃していたが、考えてみれば、18歳になって数日の身で、もう政治活動に励むとは、凄いという以外にない。「最近の若者は政治に無関心だ」と言う声をよく耳にするが、それは為政者がそう仕向けてきた、あるいはそれを期待してきたというだけのことで、別にそれが若者の特質でも何でもないのだと思う。
 青木氏とはそれから2年後にまた顔を合わせた。迷いに迷った挙句にようやく共産党入党を決意して、入党申込書を出してしばらくのちに、当時細胞キャップをしていた青木氏が「実際はもう関係ないんだけどな」と言って、党員証を渡してくれた。当時共産党員となるには、相当な決意が必要だった。「家族に累を及ぼすのではないか」などと、かなり躊躇した挙句の決断だったのだが。すでにその数日前に、新組織が出来ていたので、私以後の入党申込者はみな断られてしまった。100人を超す日本共産党東大細胞では、当時では、私が文字通り最後の入党者ということになる。
 なお、青木昌彦氏は、日本初のノーベル経済学賞受賞者候補に擬せられたことがあるという。だがこればかりは、なってみないと判らない。それもこれも、今となっては懐かしい思い出である。青木氏の余りにも早い逝去は残念と言うほかはない。合掌。