「福島 原発と人びと」広河隆一/岩波新書/2011

 この本の著者は、パレスチナ問題やチェルノブイリ・スリーマイルなどの原発事故の報告で高名な広河隆一氏。

 タイトルの通り、福島での原発のメルトダウン、爆発、そして人びとはその時どう考え、どう行動し、その時政府や東電、マスコミはどうだったのか、ということを、丁寧に取材した良書です。広河氏をはじめとした少数の個人ジャーナリストは、大手マスコミが現地に行っての調査・取材をしないなかで、事故直後から現地に入り、放射線量の調査を行って避難を呼び掛けたり、地元の人々の声を拾い上げたりしています。

 その取材の中で浮き彫りになるのは、政府や東電の情報隠しにはじまり、その結果起こる避難の遅れ、被曝量の増大、とりわけ子供たちの危険の増大、安全をPRし続ける大学教授たちの欺瞞ぶり、そのPRや正確な情報が伝わらないことによる地元の人々の分断、福島にいた人々への差別、など、原発の問題でありながら他にも同じようなことがたくさんある現代日本社会というものです。

 今回の事故は東電や政府、安全だと言い続け原発を推進してきた人びとすべてが直截に責任を負うべきことですが、間接的には責任の無いふりをし続けるマスコミ、そして原発の恩恵のみを享受しながらその立地や危険を地方に押しつけてきた有権者である私たちの責任も重く問われるべきでしょう。
 今回の事故は政府や東電による情報隠しによって、「政府の言うことは信用できない」と考える人びとの増加を齎しましたが、何も政府は「突然嘘つきになった」わけではなく、水俣病ひとつとってもその情報隠し、ごまかし、責任逃れ等は幾度となく行われ、そのために裁判闘争で長い年月、国と闘う必要があったわけです。

 歴史を振り返れば、政府による国民世論の誘導や責任逃れのための虚言、情報隠しなどの行為は、様々な形で伝統的に行われてきたのです。またマスコミも、とくにTVメディアや大手紙などは今回の報道では相も変わらず政府や東電の発表を垂れ流すばかりで「全く信頼措くことあたわず」だったことは明白ですが、何も今回初めて信頼のおけない報道に走ったわけではなく、これも伝統的に行われてきたことなのです。ジャーナリズムの問題は別問題なのでここでは割愛しますが、そのマスコミに依存し、垂れ流される多量の断片的な情報に批判精神を欠いたまま流され続けてきた私たちの責任は、ひょっとしたらより重いと言えるのかもしれません。

 「どうして私が悪いの、私が決めたわけじゃないのに」という言い訳が許されるのは、残念ながら選挙権の無い人か、子供たち、そしてこれから生れてくる人びとだけでしょう。
 原発は、私が生れた時には既に存在し、有権者となってからも存在し続けました。その意味を深く考えることもなく、その危険性については様々な著作によって若干の知識はありましたが、とくに大きな問題として意識することなく過ごしてきました。というより、怒りを感じながらも「私にはどうしようもない問題」として視野の外に追いやっていたのだと思います。

 ご存知の通り、原発は「国」が率先して推進してきたいわば国策です。その「国」の主権者は、現行法制下では「国民」となっています。このことの意味は、「国」の行うことは有権者が決定でき、その決定とそこから起こる結果に責任を持たなければならない、ということです。ドイツでは脱原発に動き出しましたし、再生可能エネルギーの利用率も向上し続けていますが、これはドイツ国民の選択の結果なのです。ここでは、間接民主制による責任感の希薄化については触れないことにします。間接的になるだけで、本質的には同じことだからです。投票した人が思った通り動いてくれないから投票しても無駄だ、あるいは国会や政府が駄目なのだというのは実に簡単で気持ちを楽にしてくれますが、だからといって、免責されるものではないのです。国民主権とはそういう意味です。

 誤解している人が多く、専門家ですら理解していない人もいますのであえて書きますが、現行法制上、最上位にある憲法というのは国民が守らなければならないものではなく、国民が「国」に守らせなければならないものだ、ということです。憲法はいわば、国民が「この通りに国を運営しなさい」と立法、司法、行政機関にたいして命令している「命令書」であり、国民はこのような国を理想と思う、という意味での「宣言書」なのです。

 例えば「私は原発にはずっと反対だった」という方もいらっしゃるでしょう。その意見を通すために誠実に活動されていたならば私は大いに尊敬します。ですが、残念なことにそれでも免罪符にはなりません。日本国民である以上逃れられない責任がある、というのが現行のシステムなのです。これは日本国民として生れてきた以上、避けようにも避けられない責任として存在します。それが嫌なのであれば「国籍離脱」の自由がありますから、日本国民でなくなるしかありません。

 今回の原発事故に際して「ではお前が責任を取れ」といわれたところで、私にはなすすべがありません。僅かばかりの義捐金を送り、自分の無力を嘆くことしかできないことは情けないことです。多くの人々が、私と同じ思いをしていることでしょう。ですが、意見表明し、あるいはデモで意思表示し、あるいは署名に参加し、あるいはそうした活動に参加すること、経済的な支援をすることで、あるいは自らが立ち上がることで、僅かながらでも国の政策を変えてもらう方向に動く努力を続け、その努力の方法を絶えず見直してゆくことはできるでしょう。そうした努力を続けている人びとは、この本の著者もその一人ですが、実は沢山います。
 またそのようなことをすれば、反対の意見をもつ人々から圧力がかかることもあるでしょう。古舘一郎というキャスターが勇気をもって「圧力があった」ことを表明しましたが、後に社長に握りつぶされたことをご記憶の方も多いのではないでしょうか。山本太郎という俳優が、脱原発宣言をしたが故に仕事が減り、芸能界から半ば追放状態にあることをご存じの方も多いかと思います。その他の多くの人々は黙り続けていますが、「黙り続けたほうが得だ」というそろばん勘定からでないことを祈るばかりです。

そうしたことは氷山の一角にすぎませんし、「権力」というもののあり方がこうした事例からも良く窺えますが、そうしたものに屈しない人びとの努力によってしか社会は変わってゆかない、ということは、法制面からも明白なのですし、それが「民主主義」という制度の最大の利点でもあるということなのです。

 その他にも、国が抱えている問題は沢山あります。年金、財政、貧困、環境問題、等等等。

 私たちは、その重い責任(と同時に権利でもあります)と引き換えに、いろいろと問題はあっても人権を享受しています。好きなことが言え、義務教育を受けられ、移動を制限されたり、政府と反対の意見を表明しただけで、あるいは突然理由もなしに逮捕・投獄されたりといったことは基本的には(実際は屡起こっていますが)起こりません。どの職業に就くか、あらかじめ決められていることもありません。幼少のころから労働時間の制限もなく働かされるということも通常ではありえません。赤紙一枚で戦場に送られることもありません。普段、あたりまえのように享受しているこれらの権利は、大勢の人々の努力によって「社会を、一部の人ではなくみんなにとって住みやすい場所にするため」に、権力者や力の強い人々、利己的、保身的な人々から長年の努力によって勝ち取られてきたものだ、ということをいとも簡単に忘れ去り、民主主義のせっかくの利点を生かしきっていないように見える現代日本社会の一面が、この本からよく窺えます。

 これらの権利を守り続ける努力をやめてしまえば、いずれ取り上げられてしまうことでしょう。それがどのような形でやってくるかは分かりません。少なくとも、そのような様々な動きがあることは知っておくべきことではないでしょうか。

 一例をあげれば、この本にも取り上げられていますが今回の事故に絡み、政府が「ネット上の不正確情報の監視」のために補正予算を組んだことが挙げられます。「そりゃデマや流言飛語によって二次災害が起こったら大変だから」という方も居るでしょうが、甘いと言わざるを得ません。あのような情報隠しをし続けた政府にとって、都合の悪い情報が広まることは、好ましい事でないことは明白ですし、一歩進めば、様々な微罪を持ち出して逮捕・投獄し反対意見を封じてしまうこともできるのが権力というものの本質だからです。こうしたことは、お隣中国の在り方を見ていても良くわかるのではないでしょうか。国歌斉唱を教員に強制する動きもあります。この問題で天皇陛下自らが「強制でないことが望ましい」と発言されるという異例の事態にまでなりました。そういう意味では、中国や朝鮮民主主義人民共和国の問題は、私たちの写し鏡なのです。
 またそもそも、「不正確」な情報を出し続け国民をある意味で「洗脳」し続けたのは東電であり、電事連であり、保安院であり、政府であり、そしてマスコミでした。そしてそのために莫大な広告費が使われたことをご存じの方も多いでしょう。なぜあのような事故の後も、「原発推進派」の人びと、「原発は安全だ」と根拠もなく主張し続けた人びとがやたらとTV出演していたのかも、お分かりになることと思います。「洗脳」といえば先日のある芸能人の騒ぎで「マインドコントロール」が話題になりましたが。そういえば、でんこちゃんはどこへ行ったのでしょうか。
 先の補正予算で監視を請け負ったのは、広告代理店でした。国民の税金が、広告代理店による国民の監視に使われたのです。こうした事例は実は沢山ありますが、ここで取り上げると長くなるので割愛します。
 現在は、政府よりも企業の力が大きくなってきています。これはこれで別の問題なのですが、これもいずれ後日ということに致します。私たちは、私たちの社会を作ってゆかなければなりませんし、どのような条件をもって生れてこようと充実した人生を送れるように、子供たち、そしてさらにその子供たちに社会を引き継いでゆく責任を負っています。
そのような意味で、今回の事故で自殺者まで出してしまったことは大きな痛手ですし、現在も数十万の方々が避難先で困難な生活を送っていることも、今後数十年は人が住めないであろう地域を生み出してしまったことも、おそらくこれから数十年にわたって被曝の問題がたくさん出てくるであろうことも、私たちの選択の結果なのですから、社会の失敗であるとともに、原発推進派であっても反対派であっても、あるいは無関心だったとしても(私を含め圧倒的大多数の方はこれだったのではないでしょうか。この点については「東京原発」という映画が話題になりました)、私に責任はない、関係ないとは言えないということなのです。無関心ということがいかに悲惨な事態を引き起こし、それが私たちに跳ね返ってくるか、この本は、そうしたことを、実践を通して教えてくれています。