わたしはTVを全くみない(というかそもそも家にTVがない)のですが、おかげで心静かに過ごすことができています。が、そんなわたしも色々な場面(たとえば居酒屋とか)でTVをみることがあります。そういうときは黙ってみることも多いのですが、ニュース番組などはその粗雑さに呆れかえることが多いですし、たいていはみているうちにげんなりしてくるものなんですね。
 いまのTVは(昔からかな)、思考停止している間にいろんなイデオロギーやら宣伝やらがボケっと空いた口に次々に放り込まれてくる、そしてみている間はそれに染まっていることに全く気付く余地がない、そういう箱(あ、今は薄型だから箱ではありませんね)だと思っています。まとめていうと「思考剥奪型イデオロギー埋め込み宣伝植え付け購買促進画一化促進無気力無関心無批判化装置」。換言=凝縮すれば「消費者化装置」。どうしてそうなってしまったのかはおいといて、あんまり愉快なものではないですね。
 そんなわたしがこのところ相次いで目撃したタレントの母親の生活保護受給バッシングと、まるでタイミングを見計らったかのようなある政治家の茶番をみるうち、既得権が憎悪の対象として盛んにバッシングされていたころから相も変わらず人々が進んで「自分たちの首を絞めたがる」のはなぜなのか考えざるを得ませんでした。この国では、自分たちで絞めた自分の首が息苦しくなると、苦しい苦しいと言いながらさらに自分たちの首を絞めるような方向に走ってしまう珍妙な状況が、このところずっと続いています。
 「消費者」は目先の損得が最優先ですから、「社会」などといったまだるっこしくて良くわからないことは、置き去りになってしまいがちです。私の母親なども、あちこちのスーパーのニンジンやネギの価格にはとても敏感ですが、隣人の苦境や、みんなが安いものを求めて右往左往したらどうなるか、などといったことについてはあまり考えないわけです。しかしながら、みんなが「消費者」化してそれぞれ自分の利得を最大化することにのみかまけてしまえば、「社会」は必ず崩壊します。どんな部分社会でも、助け合ったり、理解し合ったりしてメンテナンスすることなしに維持できないことは、家族などの身近な例で少し考えれば良くお分かりかと思います。「それぞれ自分の利得が最大になるように可能な限りエゴイスティックに振る舞うことで最適に保たれている家族」などというものを想像できるでしょうか。
 自分が得をすること=誰かがその分、どこかで損してくれているからだ、という理の必然を忘れ去ってしまえば、社会はどんどんぎすぎすし、責任を押し付け合い、気に入らぬ人をバッシングし、自分の苦しみを他人にも味あわせようなどといった根性を「痛みを分かち合う」などといった言葉でごまかしたりするようになってしまうわけです。結果、私たちは自分の首を絞め続けているのです。
 逆に、社会を崩壊させたくなければ、逆のことをどんどんやればいいのです。みんなに差し上げる、進んで損をする、困っている人がいたら助ける、それだけのことなんですね。とはいうものの、いうほど簡単ではありませんが。だからそういう人々は、昔から社会的な尊敬を受けてきたわけですし、そうした敬意は人びとの知恵の現れでもあるわけです。そうした人びとによって、みんなが恩恵を受け、社会を維持できることを理解していたからです。
 諸々の人権や生活保護法は無意味にあるわけではなく、社会を維持するための人類の知恵なのですが、その意味を忘れ去り、知恵を失ってしまっている社会状況があるので冒頭のようなバッシングが平然と行われるのです。

 その状況を、鋭敏な小説家が捉えるとこうなります
星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

 「バトル・ロワイヤル」という映画がありましたが、あれはこの社会の本質の一面をついていたのです。あまり好きな映画ではありませんが。