戦前の旧制高校ではやった歌に「デカンショ節」というのがあった。
「デカンショ、デカンショで半年暮らす。ヨイヨイ。あとの半としゃ、寝て暮らす。ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ」というのである。この意味は、「(哲学者の)デカルト、カント、ショーペンハウエルを勉強して半年暮らす、後の半年は睡眠で(実際は3分の1だろうが)暮らす」という意味だろうか。それほど当時の高校では、哲学が重要視されていたということだろう。(「デカンショ」は単なる掛け声だという説もあるが、ここでは定説に従う)
 その「デカンショ」の3人には入っていないが、ドイツにはヘーゲルという大哲学者もいた。そのヘーゲルが「国家の大変革というものは、それが二度繰り返されるとき、人々に正しいものとして公認されるようになる」「最初は単なる偶然ないしは可能性と思われていたことが、繰り返されることによって、確かな現実となる」(「歴史哲学講義」)と言っているそうである。
 なるほど、なるほど。それだから最近は、「大東亜戦争は、たまたま敗けたのだ。相手が悪かった。もう一度やって取り返したい」という人が増えているのだろうか。先の一度目の敗戦では懲りない人がそれほど多いのだろうか。「ドイツは二度の敗戦で、手痛い打撃を受けた。だが日本は一度だけだ。今度こそは敗けない」と、二度目の現実を確認したいと思っているとしか見えない行為、言説が多くなった気がする。「夢よもう一度」「かつての栄光よ、もう一度」というわけである。だがドイツの二度の敗戦、日本の一度の敗戦が、どういう結果を招いたかは、ここで繰り返す必要もない。次の戦争は、先の太平洋戦争以上の惨禍を招くだろうことは間違いないであろう。
 なおカントには「永遠平和のために」という平易な著作があることを、最近教えられた。「純粋理性批判」のような難解な論議だけかと思って、食わず嫌いでいたのだが。すでに1796年(第一次世界大戦の120年前)に、戦時公債の禁止、常備軍の廃止、自由な諸国家間の連合(のちの国際連盟の原型か)などを提唱していたというから、驚くべきことである。