2016年 3月の記事一覧

«Prev1Next»
16年03月28日 14時40分32秒
Posted by: kuriyama

このほど東京都社労士会の海外視察旅行(上海)に同行した。行政書士との2足の草鞋を履いていると便利なときもある。初めての訪中なので、見るもの、聞くもの、驚きの連続だった。最初に上海からの観光バスの出入りでは、3車線ある高速道路はギッシリ満員で、すごい渋滞だった。日本とは時差1時間で、気候も北京と違って東京並みなので至極快適だ。視界一面に車がギッシリ詰まっていて、なかなか前へ進まない。ほとんどが乗用車だ。軽自動車は1台もない。聞けばみな足の利便のためではなく、ステータスシンボルとして買っているので、日本でいえば1000万円位に相当する車を争って買っているのだという。
  1889年の天安門事件の頃は、労働者はみな自転車通勤で、天安門広場を行き来していたので、「これは中国労働者はまだまだ貧しいのだな」と思って、不遜にもホッと安堵の溜飲を下げていたものだったが、考えてみればそれからもう27年も経っている。全体が我を争って車を買うに至っても、何の不思議はない。それで今上海の人口は2300万人で、東京都の約2倍である。北京も同じ位、中国でトップは重慶で約3000万人いるという。
  その日と次の日に、中国茶と絹糸刺繍工場の見学があった。実地でお茶をどう入れたらおいしく飲めるか、絹糸の刺繍はどうやって作るかを実演して見せてから商品を売るので、嫌みがない。みな先を争ってお土産品を買い求めた。
  刺繍工場では、工場長が「1972年の日本の首相はだれですか。その時の中国の首相は?」と聞いてきた。田中角栄と周恩来だなとすぐわかった。中国では田中角栄は、今でも尊崇の的のようだ。日中国交回復当時、周恩来が田中角栄に1000万円近くする絹糸の刺繍を送って、いまでもそれは田中邸に飾ってあるとの話である。田中邸といえば、新潟地方の物流を完全に止める8日間にわたる大争議となった1957年の国鉄新潟闘争当時の革同のキャップ=細井宗一(糸魚川機関区出身)は、いつでも田中角栄にはさしで会える間柄だったという。戦前中国戦線で、田中は細井大隊長(中尉か)の馬の轡をとっていた。たぶん細井はいい上官だったのだろう。ときたま東京駅八重洲口などで出会うと、細井は腰に軍刀をつるしたような歩きっぷりをしていた。戦後田中が大蔵大臣以上になってからも自由に会えるようになっていたという。裏口から田中邸を訪れると、サッと招じ入れられた。国鉄分割民営化当時、細井は総評冨塚の意向を受けて、「民営化やむなし。分割だけは阻止する」との線でまとめようとしたが、田中の脳梗塞で頓挫した。もっとも脳梗塞で倒れなくとも、それが実現できたかどうかは疑問だが。国鉄分割民営化、総評解体は、資本家階級の階級意志だったのだから。
 ただし田中の日中国交回復には、キッシンジャーが激怒したということである。アメリカの議会ではいったん否決されたので、真の国交回復は、日本よりもはるか後のカーター政権下の79年になってしまったからだ。「小汚いイエローモンキーめが。他人の歴史的事業を完全に盗み、出し抜きやがって。絶対に許さないからな」。その仕返しがロッキード事件、ピーナッツの暴露だったのだ。
 そのほかに、運河の都・蘇州の訪問や、豪商の私邸である「豫園」「龍園」の見学、「雑技団」(中国式サーカス)の観覧、日本と中国の弁護士による講演会(中国の労働事情と労働法制の解説等)など、盛り沢山だった。お互いの往き来には金がかかるが、もっと交流を盛んにすればよいなと思った次第である。
 もっともここ上海の地は、戦前日本軍隊が、2次にわたる上海事変(一次は1931年の満州事変の直後、二次は1937年の蘆溝橋事件の直後)を引き起こし、一次のあと1932年に米英仏と租界という名の治外法権ゾーンを設定した地である。ディックミネの「夜霧のブルース」「上海ブルース」、渡辺はま子の「蘇州夜曲」は、いずれも当時の上海租界を懐かしんだ歌である。さらに1937年7月の蘆溝橋事件のあと、8月に上海から南京へと攻め込んでいった場所でもある。交流を盛んにするのはよいが、そうした歴史的事実を忘れてはならないと強く思った次第であった。

 

16年03月19日 20時34分04秒
Posted by: kuriyama
もうかれこれ7~8年も外反母趾に悩まされている。だが外反母趾に気付いたのは、ほんの偶然からだった。それまでは爪水虫の治療に皮膚科専門の単科医に治療に通っていた。そこは単科医であるにも関わらず、患者が引きも切らず賑わっていた。そこでは、医師、看護師とも患者に親切で、水虫の足だろうが、白衣の膝に抱えて丁寧に薬を塗ってくれる。それだけで患者は感激し、いずれ治るという気になってくる。
 そのころ、つい3か月の間に、足の指があれよあれよという間に変形してしまった。足の親指の付け根が内側に出っ張り、指先が外側に曲がってきた。水虫の治療に通っていたそこの院長先生も「変だな。変だな」と言いながら、丁寧にその出っ張りに薬を塗ってくれていた。3カ月ほどたったある日、たまたま診察が女医さんに回ってきた。女医さんは、一目見るなり「何よこれ。外反母趾じゃないの」との診断を下した。この診断はショックだった。それまで、外反母趾には、ハイヒルを履いているいる女性がなるものとばかり思ってきたからだ。
 その診断のあとも、病状は進行した。整形外科医を紹介してくれたものの、思ったほど治療は進展しなかった。外反母趾になる身体的メカニズムは、まだよく判っていないようである。骨というよりは、筋肉に不自然な力が加わったり、ベタ足の人がなりやすいということぐらいか。思い当たることといえば、ここ半年ぐらい、やや重いものを持って、福岡、高松、広島、大阪などの入管へいくようになったせいか。友人とダンスを習いに行ったせいかなと思って、調べたらこの方は1年半前に三日坊主で辞めてしまったので、関係がないようである(日舞が重心の移動は滑らかに行うのに対して、洋舞は重心の上下動が激しいので、外反母趾にはよくないと言われている)。そのうち重いものを持ったり、長い距離を歩くと、足がひどく痛むようになってきた。とりわけ両足の中指の付け根が痛むようになって来た(モルトン氏病という)。さらに「巻き指」と言って、足の中指が尺取り虫のように曲がってきた。また足の裏にたこや魚の目ができるのも、歩き方が正常ではないという。
 これは大変だと、あちこちの整形外科医を訪ねてみたものの、診断はあまりはかばかしくは進まなかった。口幅ったい言い方になるが、どうも西洋医学は筋肉を鍛えるなどには、適さないようである。精神科医と整形外科医に関しては、医師によって言うことがまるで違う。どうもこの二つの科はまだ未成熟なのであろうか。ある整形外科医は、患部の足も見ずに、ビタミン剤と筋弛緩剤をよこすだけだったり(これは定番の治療だ)、ある整形外科医は「これは手術するしかないな」と言ったりした。冗談ではない。手術の成功率は70~80%というではないか。残りの20~30%のうちに入ったらどうしてくれるのだ。孔子の言にもある。「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」と。
 こうしてあちらこちら回った末に、何となくいまは治癒とまでは行かないが、小康状態を保っている。その中には整形外科医も入っているが、何人かの医師から聞いた処方がある程度適合しているのかなという気がする・中でもK整体師の情報がかなり当たっているような感じがする。因みに整骨師は柔道整復師とも言い、国家資格で保険適用なのに対して、整体師にはこれらの規制がない。長くなるので、そこからヒントを得た何点かを列挙すると、①毎日2回ほど、5分ずつぐらい、両足をマッサージする。両手で足の裏と足の平を挟んでやる。②厚手の伸縮性のある包帯を足指に巻き付けて歩く。③3本指のソックスを履く(5本指は効果がない)。④靴はひも靴とし、靴底で足が滑らないようにする。⑤靴の中敷きは絶対必要。⑥足の着地は、足全体で行うなどである。お試しあれ。
16年03月16日 12時39分20秒
Posted by: kuriyama
さる日曜日、友人に誘われて歌声喫茶に出かけた(固有名詞は伏せる)。その日はロシア民謡だけをやるという話である。そこはロシア民謡、労働歌・革命歌、山の歌の3大ジャンルを中心に賑わってきたという。もっとも50数年前の最盛期には、コーヒー一杯で3~4時間も粘れたいう話だが、今時そんなことをやっていたら潰れてしまうので、酒もビールも提供する。そこには別な友人から誘われて、10数年前から年に何回か出かけるようになった。時々大声を張り上げて歌うと、身体や頭脳の健康によいことを体感できる。
 ただ大学時代から、ロシア民謡だけではなく、ロシア文学も好きだった。重厚だが、やや野暮ったいところが、私の気質と共通していたのかもしれない。そのため第三外国語にロシア語を選択して、辞書を引けば何とか読めるぐらいのところまでは行った。ドストエフスキーで1ページに7~8語ぐらいだったか。語学的・文学的には浅学菲才で、大きなことを言えた柄ではないが、1ページ当たりにひく語彙の数だけから言うと、ドストエフスキーがいちばんやさしくて、レールモントフ、トルストイ、チェーホフの順番だったか。チェーホフは軽妙な語を選ぶせいか、案外難しかったと記憶している。次いでプーシュキン、ゴーゴリの順番か。ゴーゴリはウクライナ人なので当然だが。教授は著名なロシア文学者で、(当時のソ連共産党機関紙の)「プラウダ(真実の意)というが、ニエプラウダばっかりだ」と言って、学生を笑わせたたりもした。
 もっとも読み書きから入る日本の語学教育は、子どもが親の話を聞いて身に着け、読み書きはそのあと学ぶという自然原理に反している。脱亜入欧を急いだせいか。同じころハバロフスク大学の日本語科は、20人学級でまずリンがホーンで会話から学び、読み書きはそのあとから教わるという話だった。
 ともあれロシア民謡を大声で合唱したりしていると、ときにソ連時代の歌で違和感を感じるときがある。「ふるさとのこえが聞こえる。自由の大地から。何よりもわれらしたう。なつかしソビエトの地。世界にたぐいなき国。うるわし明るき国。われらの母なるロシア。子どもらは育ちゆく」(「エルベ河」)などと聞くと、「うーん」と首をかしげてしまう。
 一方、それから数日後に別なカラオケ酒場に行った。そうしたらいい年配の男性が、得々と気持ちよさそうに軍歌を歌っていたので、ビックリした。「出征兵士を送る歌」である。「わが大君に召されたる、命栄えある朝ぼらけ。讃えて送る一億の、歓呼は高く天を衝く、いざ征け強者日本男児」「~無敵日本の武勲(いさおし)を世界に示す時ぞ今、いざ征け強者日本男児」。こういう強がりを野放図にばらまいた結果が、惨憺たる破滅の道へと至ったのだろう。歌を聞くと、この人は鉄砲を担いで先頭を行くのか、それとも背後にいて「征け征け」と他人を煽るだけの存在なのかと、考えさせられてしまう。
 いずれにしろ他国の欠陥だけをあげつらっている議論には、ろくな結果となるものはない。
«Prev1Next»