表記の映画を観覧し終わって、一瞬これは現在の日本の政治を当て擦り、批判した映画なのかという錯覚に陥った。1971年の事件を描いたこの作品は、政府に都合の悪いニュースは強権を振るってでも隠蔽しようとする政権側と、真実を報道しようとするメディア側とが真正面からぶつかって、後者が勝った事件を、迫真性をもって描いている。
終わり近くのヤマ場は、訴追の恐れを理由に、記事不掲載を迫る会長や顧問弁護士などの意見を退けて、ワシントン・ポスト社主のキャサリン・グラハムが、記事掲載を決断する場面である。その決断は、一地方紙に過ぎなかったワシントン・ポストを、ニューヨーク・タイムズと並ぶ全国紙へと押し上げた。もちろんその背後には、「アメリカはこのベトナム戦争では勝てない」という分析を押し隠して、何十万人という米国人を死地に追いやってきた歴代のトルーマン、アイゼンハウアー、ケネディ、ジョンソンの4人の大統領の政治に対する強い憤りもあったのであろう。だがアメリカの「言論の自由」「表現の自由」というものは、このようにして、多くの市民たちが、自らの生活と信念を賭けて、一歩一歩闘い取ってきたものであるということを強く刻印づけている。日本で今なお幅を利かせている「長い物には巻かれろ」「寄らば大樹の陰」などという、江戸時代から馴致された情けない習性とは、対極に立つものであるのだろう。
ワシントン・ポストの記事掲載の以前に、ニクソン政府はニューヨークタイムズの「ペンタゴン・ペーパーズ」掲載について、記事差し止めを求める訴えを、連邦地方裁判所に対しておこしていた。この訴えは一審では却下、二審では認められたが、連邦最高裁判所では「政府は説明責任を果たしていない」という理由で、再び却下された。
最高裁判決は指摘する。「報道機関は国民に仕えるものであり、政権や政治家に仕えるものではない」「報道機関が政府を批判する権利は、永久に存続する」「制限を受けない自由な報道のみが、政府の偽りを効果的に暴くことができる。ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストその他の新聞社が行った勇気ある報道は決して有罪判決に値するものではなく、むしろ建国の父が明確に掲げた目的に報いる行為として称賛されるべきである」「この国をベトナム戦争参戦へと導いた政府の行為を明るみにすることで、前述の新聞社は建国者たちがこの国に望んだことを立派に実行したのである」
冒頭の「報道機関は国民に仕えるものであり、政権や政治家に仕えるものではない」という言葉は、それこそ現在問題となっている、財務省の改ざん隠蔽疑惑を真正面から指摘・批判したものであるかのようである。
何という格調の高い判決であろうか。私も、この映画を見るまでは、判決がこのような崇高な基調に貫かれていようとは、全く知らなかった。逆に日本では、とてもこのような判決は望めないのではないか。日本の三権分立は、全くの形だけのものである。ごく一部の裁判官を除いては、ほとんどが行政権力が実行した行為を追認し、あるいはせいぜいで行政行為を裁判所が裁くことはなじまないとして、却下してしまうのが常なのではないだろうか。また政権からお誘いがかかれば、嬉々としてゴルフ接待や料亭接待にはせ参じるのが、ほとんどのマス・メディア幹部の実態なのではないだろうか。何も戦前の「大本営発表」だけを過去の話として、笑い飛ばして済む話ではないのである。スティーヴン・スピルバーグ監督や出演者のメリル・ストリープ、トム・ハンクスらに大きな拍手を送りたい。