結婚当時,妻は特定の宗教には入信していませんでした。しかし,結婚後3年たったころにある宗教団体に入信することになりました。

1年ほどたったころ,夫がそれに気づき,夫は宗教活動をする妻を,あまりよく思っていなませんでした。そこで,夫はその気持ちを妻に伝えました。しかし,妻は夫の言葉に耳を貸さず,さらに信仰を深めていきました。

宗教活動をすること自体の良し悪しは語る必要もなく,悪いわけはありません。しかし,家族の間に小さな隙間を生じるようになると,何が大事なのか微妙な問題になります。

さらに,何が大事なのかを話してみると,「家族の健康,幸せ」など,同じだったりします。つまり,そこに行きつく手段として,心の支えとして,何が自分にとって必要なのかという問題なのかもしれません。

そして,妻は5歳になる子どもを連れて集会等にも参加するようになりました。

ところが,妻の宗教思想が非常に偏っていると報道されました。夫はそれを見て,妻に信仰を辞めるようせまり,集会への参加を禁止してしまいます。しかし,宗教は信仰の問題でもあり,それは心の中の問題でもあります。

つまり,外側からの禁止等の抑制だけでは効果はない場合もあるということです。

信仰心をもつ妻は,墓前で手を合わせない,地元の祭りの参加を拒否する,正月の初もうででの参拝の拒否などを続けていきます。

そんな妻のかたくなな態度が夫の気持ちを大きく逆なでしました。そして,ついにそれに対する夫の暴力が始まってしまいます。

結婚5年後には,妻が実家に帰ってしまいました。ここから夫婦は別居となります。

そして,ついに別居が約7年になろうとするころに夫が離婚の請求を行ってしまいました。

この場合,暴力行為をしたいわゆる有責とも言える夫側からの離婚の請求が認められるのかとの判断も考えられました。

しかし,破たんのもともとの要因は信仰上の食い違いであり,この部分において,夫のみの責任と言えません。つまり,妻の側にも責任が認められます。なので,この請求は認められ,さらに婚姻関係が破たんしているとして,離婚も認められました。

幸せになろうとするための宗教活動が,いつしか,活動のための活動となってしまい,その活動に対して周囲の理解が得られなくなってしまったようです。

家族の幸せのための宗教活動が,いつしか,その活動によって家族が振り回される結果となってしまいました。本末転倒な結果に複雑な思いがいたします。